読書濾液の貯水箱

本を読んでいたことを忘れないために

年末にアマゾンで映画を見た(前編)

 
 AmazonPrimeVideoという動画サービスが始まり、私はdTVをやめてこちらに移った。dTVも品ぞろえは良かったが、価格が高い割に、それほど映画を見ない人間だったので、付帯サービスもあるAmazonPrime会員に移った。
 
 
 空いている時間を有意義に使おうとは思っていても、それほど気力が有り余っている訳でもなかったところから、映画という若干受動的なアクティビティに身を費やす事にしたのである。
 
 
 少なくとも今見た映画は4本。これからまだいくつか見ていく予定だ。
 
 

 

トゥルーマン・ショー (字幕版)

トゥルーマン・ショー (字幕版)

 
 「有名すぎて実物を見る前にネタを知らざるを得ない」、猿の惑星に次ぐような作品だが、最後がとても良かった。
 何気ない日常の一つのセリフを、文字通りショーの幕引きに活かすのは、シンプルで王道ながら、胸にグッとくるものがある。
 
 
 ○ヒトラー最後の12日間

 

ヒトラー ?最期の12日間? (字幕版)

ヒトラー ?最期の12日間? (字幕版)

 
 某動画サイトで死ぬほど引用されているシーンを含め、迫真の演技が淡々と続き、終わりへと着実に追いやられていくことに、息の詰まるような感覚を覚えた。
 狭く苦しい地下の中で、確かにある日常が逆に悪夢にさえ思える、というのは、生々しい実感が籠もっていた。
 ソリティアをしたい。
 
 
 ○真実の行方
真実の行方 (字幕版)

真実の行方 (字幕版)

 

 殺人事件の弁護人の持つ野心と、検事の正義を追い求める信念が、男女の関係の間でほんの少しブレる。

 互いに追い求めたものを得ようとして得られず、敢えて得ないようにして得てしまう。
 
 

 

スリーピー・ホロウ (字幕版)

スリーピー・ホロウ (字幕版)

 
 首なし騎士に襲われる町を舞台にしているが、首なし騎士はあくまでも舞台装置でありつづけた。
 最後の最後の口づけと、地獄への新婚旅行は、なんかこう、エロい。
 いいじゃん、ああいうの。
 
 
 
 年始も含めて、あと3~4本くらい見てみたい。

「考えない練習」を読む


 0 本の情報
 タイトル:考えない練習
 作  者:小池龍之介
 出版年月:2010年2月14日 初版
 出版会社:小学館
 (ほかに同著者の
 タイトル:平常心のレッスン
 出版年月:2011年10月30日
 出版会社:朝日新聞出版
 を読んでいます)
 
 1 はじめに 体の感覚と思考
 この本は三年ほど前に読んだことがあり、同作者の本は他に「沈黙入門」などを読んでいる。
 今回は概要としても、「実際にどのようにすべきか」というハウツーのみを抽出し、その手法をメモすることに

尽くすこととする。
 その背景にある仏教的視点その他の作者の思想については、今回は引用と軽い分析にとどめることにする。

 2 本の概要 心を落ち着けるためには
 (1)体の感覚に意識を向けること
  著者は徹底して、「体の感覚を研ぎ澄ませることによって無駄な思考を省き、『今していること』に意識を向けるべきであ

る」としている。この考え方について今読むとアドラーっぽさを感じる。
  具体的には、
  「話すために考えるより、『今話している自分の声』を聞きながら会話する」
  「集中力を保つために、今自分が『ふれているもの』を意識する」
  「ただ歩いているときにも、足の裏の感触を意識する」
  「目的を考えていない呼吸に意識を向けて、風に揺れる木の葉を見ているように瞑想する」
  という例が揚げられている。
 (2)自分の感情を見つめる
  もう一つ、著者は「自分が考えていることを見つめ、ただ観察するだけにして、反応にとらわれない」ということを掲げて

いる。この考え方はいわゆる「メタ認知」の技術とほとんど同じのように感じる。
  具体的には、
  「何かを観察したとき、『~がある、ない』でとどめ、それ以上の判断をしすぎず、さらに自分の感情面にフィードバック

しない」
  「自分は『褒める音を聞くと舞い上がる』『非難される音を聞くと落ち込む』ということを知っておく」
  「『いい』『悪い』で心を評価・批判せず、『そうである、ない』で留めて現状をただ認識するに留める」
  「心が揺れ動いてしまうことは当たり前のことであり、ただ『そうである』と理解することだけを続ける」
  「明日にはできなくなってしまうかもしれないが、それも『そうである』以上に悩んだり、評価したりしなくてもよい」
  というように語られている。

 3 おわりに 安らかでありますように

 昨今の「マインドフルネス皿洗い」とか、いろいろな精神アプローチはあるが、だいたい著者が似たようなことを言っていた

ように思う。もっと言えば、森田療法まで遡れるかもしれないし、あるいは宗教的アプローチに戻っても案外見えてくるのかも

しれない。
 生きることに真摯になったのなら、それほど結論にバリエーションがあるわけでもないとも思うので、これから新しいことが

ぽんぽん出てきたとしても、一つくらいに納めておきたいものだ。
 もちろん、私がそれをこれからずっとできるわけはないんだけれど。

「使える失敗学」を読む

(一部修正)
  0 本の情報
 タイトル:01図解 使える失敗学
 作  者:畑村洋太郎
 出版年月:2014年7月31日
 出版会社:KADOGAWA

 1 はじめに 失敗を活かせない失敗と、失敗をできてない失敗
 間違うこと、失うことが失敗だとして、本当の失敗はどこからだろうか。個人的には、「取り返しのつかないこと」が一つの目安だと思う。
 失った物が帰ってこない分水嶺を見極めて、それをどこまで
 「遠ざけ」
 「失う物を減らし」
 「これから得るものを増やせるか」
 ということについて、今回の本から学ぶことができたと思っている。

 2 本の概要
 (1)失敗から学ばない失敗
 当書では、「失敗から学ぶことで成長する」ということのために、失敗から学ぶためのテクニック提示している。
 最初は、失敗してしまったことに対しての姿勢が説明される。
 「失敗したときはエネルギーが奪われているから、これを回復するためには一度逃げてしまってもかまわない」
 「失敗したことには鈍感になって、周囲の批判に惑わされず、失敗の原因を冷静に見極める」
 「失敗への対処を日々意識しておき、一番最初の対応を間違えない」
 というように、失敗することに対してどのような姿勢を持つべきか、ということを例示している。
 ここまでは、比較的シンプルな戦略的視点である。

 (2)失敗を学ぶための技術
 そして、
 「実際にどのようにして失敗から学ぶか?」
 という戦術的な視点が重要になる。。
 「失敗の原因は組織と個人が重なり合っている」
 「組織の中で失敗の情報は伝達されにくい」
 「失敗の情報には当事者の一人称的な意識が不可欠である」
 というように、実際に起きた失敗をどのように分析していくのか、ということが事例をふまえて説明されている。

 (3)創造の中にある失敗
 そうして分析した事例を活かすのは、「創造」である。
 新しいことをはじめるという行為には、大量の「失敗」が否応なく含まれている。
 そうしたことをふまえて、創造という行為のために
 「仮想して考えられる失敗から目をそらさない」
 「失敗から学んだことによって思考の『獣道』を作る」
 「過去から学ぶことに謙虚であり『続ける』」
 ということを行い、可能な限りの失敗を防ぎ、適切な創造を重ねていくことができるのである。

 (4)失敗から創造へ
 「グローバル化している現代ではマニュアルだけでは足りない」
 「新しいことを吸収していく力は衰えていく」
 「過去の経験に固執して条件の変わった現代に対応できない」
 このような失敗に対応するためには、失敗に対して創造を重ねていかなくてはならない。 
 巨大な組織は、いつしかマニュアル化を重ねることで例外に対して対応仕切れず、縦割りの組織はいつしか全体的な視野を失って隙間に失敗を生み出す。
 これらを防いでいくためにも、常々の失敗を確かに分析し、常に取り入れることによってマニュアルを常に更新していくことや、組織のコミュニケーションを増加させて情報を交換しやすい環境を作り上げていくことが重要である。

 3 おわりに 創造と失敗
 何かから学んでいこうとするのであれば、何かを分析しなくてはいけない。
 それが失敗であるとき、人は失敗の特性に気づいていくという。
 失敗というのは、「経験知」という貴重な知識を伝えやすい一つの方法である。
 「成功例」ももちろん重要ではある。しかし、
 「新しいことに取り組む」
 のには、必ずしも「成功例」は役に立たない。しかし、「失敗例」については比較的役に立てやすいように思える。
 著者は、成功例の分析と、創造への繋げ方についても記載していて、何かを作っていきたい、挑戦していきたいという人にはぜひ読んでほしい本だ。

 失敗に対して、一番最初の対応を間違えてしまえば、修正には莫大なエネルギーが必要で、いつか引き返せないほどの失敗となってしまうと、車のリコール問題で説明がされていた。

 どこまで引き返せて、どこまでの代償が待っているのか、ただそれだけが怖い。

「サナギさん」を読む

0 本の情報
 作家:施川ユウキ
 出版社:秋田書房
 全6巻

1 はじめに 絵と技術と知識
 
 最近施川ユウキにハマっている。

 「バーナード嬢曰く。」のワンテンポ遅れたヒットから存在を知り、同時発売の「鬱ごはん」「オンノジ」に手を出し、特に「オンノジ」から言葉遊びと垣間見えるほの暗さとデフォルメされた絵の相乗効果に痺れ、過去作を漁るようになった。

 そして、「サナギさん」を読むことになったのだが、本当に面白い。ほんわかとした画風と話に包まれて、ほの暗い苦みが喉をするりと落ちていく。いろいろなキャラクターがいる中で、ひたすら続いていく日常の隅に溜まった澱が耳をすり抜ける。

2、内容 入り乱れるキャラクターとマナミさん

 「サナギさん」は全6巻で一度完結しているが、現在「おかえりなさいサナギさん」という形で新たにネット連載がされている。連載の再会が望まれるほどの作品だったらしく、チャンピオンではそれ相応に人気があったらしい。当時チャンピオンはバキ以外読んでいなかった自分にとって、この事実はあまりにもショックだった。

 この作品は中学生の望月サナギと倉田マフユの二人を中心とした日常生活を描いたものである。いわゆる「日常系」にくくれることは間違ってはいないだろうけれど。
 この漫画の大半は、サナギさんのちょっとした意見にフユちゃんがネガティブに返すという流れである。この作品では何人かネガティブ思考のキャラクターがいるのだが、フユちゃんのネガティブさとは明白に異なる。世の中を皮肉っているのがフユちゃんだ。黒田サダハルという男子はひたすら自分の不幸を目指してはもう一人の男子に殴られている。そして、仲村マナミは「踏むか踏まれるか」という非常に明白かつ独特な視点から悲しげにいろいろなものを見ている。

 マナミさんは作中でも屈指にやたらめったらにキュートに見える。単純に自分の趣向としてトド松みたいなアヒル口が好きなだけか、「~ね」という独特の口調が愛おしく感じるだけか。それはともかく。
 サナギさんの中では、何人か一時期出てきたもののすぐに立ち消えになるキャラクターが多い中で、「踏むか踏まれるか」という一点集中的な立場から、レギュラーと言える程度に一巻から続いて参加している。悲しいことを考えることが多いが、その悲しみは「踏むか踏まれるか」から来ることが多い。
 マナミさんは、初登場からしてとにかく踏む。アリは踏む。ガムも踏む。茶柱も、切り株も、韻も、図も(乗って)踏むのだ。
 踏むということは君臨することだと考えるマナミさんは、いつか覇王樹(サボテン)を踏みたいといい、「雨足」に降られて踏まれたり、海岸のアメフラシをすべて踏みつけたりする。
 作中で花を踏むとき、「本で挟むのも足で踏むのも ぺちゃんこにされるのは一緒ね!」「これが人間ね」と言い、泣きながら踏む。パンを踏んだ娘が地獄に堕ちることを知っている彼女は、「代わりに素人でも踏みやすいナンを踏みまくってるね」と暴力性を発揮している。
 こういうキャラクターが好きな理由として一つ考えられるのは、自分の暴力性とその悲しみを十二分に理解しながら、それを暴力だからこそ振るっている姿がとても感情的で理性的な人間に見えるからなのかもしれない。
 彼女は牛乳を飲むにも「遠く離れた地の顔も知らない牛を乳母とし毎日パック詰めされた母乳を細い管を通して授乳させられているという状況が」「好きね」と言ったり、ぬいぐるみは「縫われくるまれ」だと言ったり、親雪だるまの前で子雪だるまを踏んで惨劇を演出したりする。
 サディスティックになるには、それが悲劇だということを強く意識し、それを心から悲しめないといけないのかもしれない。わかっていて、そうするのがいい。

 3 おわりに バスとメロス

 今現在、続編もすでに始まっている作品に対して言うべきことではないのかもしれないが、最終話が本当に良かった。
 作者も巻末のあとがきで、「最終回っぽい最終回」を書けたと言っているけれど、日常が終わらない作品の最終回として、本当に良い最終回だった。バスに乗っていく登場人物たちと、一人フユちゃんを待つサナギさんの会話がいつも通りに流れていくなかで、いつも通りに「今がずーっと続けばいいのに」と願う時間。

 最後のセリフもグっと来た。なんだか知らないけど泣きそうになった。
 二人を乗せたバスが出発した後の「おかえりなさいサナギさん」も読みたい。

「アイディアを形にして伝える技術」を読む


0 本の情報
タイトル:アイディアを形にして伝える技術
著者  :原尻淳一
出版社 :講談社講談社現代新書
定価  :税抜き720円
 リンク等を張らないのは、自分の現環境では困難であるからだ。

1 はじめに さようならKindleはじめましてブックオフオンライン
 Kindle、君はいい友人だったが紙の良さがいけないのだよ。
 いや、Kindleは今後もマンガやら小説やら自己啓発本やらは買っていくと思う。でも、実用本はやっぱり紙じゃないと意味がないということに気がつき始めた。
 そんな私にブーストをかけて殴りつけてきた本が当書になる。(殴りつけてきた理由について今回は言及しない)
 とはいえこれも二〇一一年の本。2015年の今、これを受けてブログを書いた人も居るだろうし、これをブラッシュアップした本や意見も言われ尽くしているんだろうと思います。

 なんで今更この本を買ったか? 最近Twitterでフォローした「ストーリーの書き方」ってアカウントで拾った一文に惹かれたから。

2ー1 本の概要 アイディアを生み出すシステムを持つ
 この本は、「知的生産の技術(梅棹忠夫)」の本を皮切りにした技術体系を現代版にブラッシュアップしたものである。ただ、その内容はアカデミックな場というよりは、ビジネスの世界を対象としている。
 そうは言っても、新技術の利用はそこまで多くない。EvernoteTwitterを利用したインプット・アウトプットの方法を提示してこそいるが、その根底となる思想はほとんど「知的生産の技術」と異ならない。そして、本書で提示される手法は、今の技術を伴ってより実践的である。
 でも私が惹かれたのはそこではない。

 2ー2 本の抜粋と考え事 書く技術
 第五章「わかりやすく自分らしい文章術」では、文章を書くための原則と、自分のための「ルールづくり」についてが述べられている。
 
 まず、好きな文章・良い文章を抽出し言語化する。抽出に際しては、文章が表現したいこと、文章がだれに読まれるのかということを意識する。小説を書くなら好きな小説の作家あるいはジャンルを母体にするし、論文なら対象となる分野の論文が母体になるだろう。
 次に、抽出した文章が「なぜ好きなのか」「なぜ良いのか」を分析し、そこにルールを見いだす。文章の構成が良いのか、言葉遣いか、わかりやすさか、比喩か、リズムか……ということを、明文化して書き出す。
 最後に、そのルールを用いて実際に書いたものを見せる。そのルールが活きているのか、他者の目を以て確認しなければならない。自分が作ったルールが正しいのはあくまで自分の中までだからだ。

 こうした「ルールづくり」の技術には感銘を受けた。好きな表現のノートを作ったり、それを参考にする、なんてところまではわりと良く見かけていたし、実践もしている。けれども、ここまで技術的に「ルール化」されると、その「技術」と「目的」のための視点・視座を持てることに敬意を抱かざるを得ない。
 実際に書くために試行錯誤するのは当然かもしれないが、その「書く」以前の作法を洗練させていくことの大切さを心から感じた。

 3 おわりに 書くことへの真剣さ
 他にも、当書では何かをアウトプットするための小さな技術がつまっている。それは企画書であったり、プレゼンテーションであったりして、若手のビジネスマンを対象としている。
 良い物を生み出すための技術を洗練させ続けることは大切だ。それはアイディアだって同じである。技術を洗練させていくためには、生み出す「今」に真剣でなくてはいけない。
 疑問を抱く。枠組みを思う。より良いもののために何ができるか。そのためにはそもそも「より良いものをつくる」姿勢がなくてはいけない。
 本当に良い文章を作りたいのか?
 もう一度深く問いかけたい。

「プラトニック・アニマル」を読む

 
 1 はじめに
 
 
 今回は全く別口の本についてメモを書き残したい。
 べっとりと執拗に、自分の心に付き従うまま、言葉の一つ一つを丹念に吟味して、そのまま中身を語っていきたい。
 
 小説を書く上で、それがどんな作品であれ、人間関係を一切省くことは困難である。特に、男女関係というものは古今東西のテーマとなる有情、避けて通れる問題ではない。
 この本は、AV監督である作者がその道を生きて紡ぎ出した哲学のような何かを実直に語ったものだ。
 
 
 2 人間としての社会性と本能
 
 
 作者がこの本の中で価値観の下敷きにしていることを大まかに分けると二つある。
 
 一つは、「人間誰しもスケベであって、一皮剥けば淫乱であること」
 もう一つは、「スケベなのに楽しめていないなら、それはエゴが壊れていないから」
 である。
 
 
 作者は「自然な環境で自然なままに過ごすと男性的な魅力が高まり、女性とも関わりやすくなる」ということや、また「男性も女性も理性を優先させると気持ち良くはなれない」ということを述べている。
 作者がAVを作成する時に意識するのは、「その女性が何を本当に望んでいるのかどうか」ということを知ることだそうだ。どんな考え方をして、どんなつらい目にあっているのか。そんな一般的な相談事をしっかりと話し合い、お互いに理解しあった上で、性的な話へと突入する。オナニーではどんなことを想像するのか、どんな風なことがしたいのか、されたいのか、したいのか、オーガニズムを感じたことはあるのか、云々。
 こうした経験を重ねるうち、作者は「かくあるべし」という「エゴ」が問題であると考えるようになった。「性的欲求を覚えることは不純である」「性的なことを求めることは恥ずかしい」「いけないことはすべきでない」というような言葉群こそが、本来の快楽を妨げる要因になっている。
 深い心の中をさらけ出して、すべてを任せている状態になると、そこに「こうすべきだ」という考えがなくなる。曰く、
 「無垢な子供の姿に似ている。たとえば、まっすぐ来たら板を踏み外してドブに落ちることになろうとも『こっちにおいで』と言われたら、子供は何も考えないでやってくる」
 と言う状態だ。こういった価値観、固定観念を捨て去って初めて本能に従った性的欲求が満たせる、オーガニズムを感じることができる。あるがままの己に戻り、感じる快楽こそを想う。
 作者はこの状態を、「エゴの死」という言葉で説明している。エゴが死に、「かくあるべし」から逃れて初めて、本当の愛が純粋に存在する。体も心も祝福する愛がそこにある。
 
 
 3 おわりに
 
 当書は他にもテクニックとして「どんどん言葉を言わせて心の防波堤をぶちこわせ」とか、「イカせようとしてもそんなエゴがあるんじゃ意味がないんだ」とか、「淫乱に成りきれてこそお互いが素晴らしい時を過ごせる」とか、「男は甘えて悦ぶことだって当然にできる」とか、果ては「身近な緑とチャネリングして自然体の自分を取り戻す」とか、なんだかとんでもないことまで書いてある。
 とはいえこういった論理構成は著しく興味深いものだった。いや当たり前のことではあったんだけれども、より生々しく具体例をふまえて説明されると、すとんと腑に落ちるところがあった。この考え方で納得できる自分の考え方のいくつかを見つけることができたことを嬉しく思う。
 だとしても、人に薦めるにはちょっと。

「社内政治の教科書」を読む

  
 1、はじめに 会社でこの先生きのこるためには

 お世辞にも優良社員とは言い難く、能力が低いか高いかについてはともかく、コミュニケーションに関するスキルがお察しのとおり全くない。
 現状、これからどう考えても悪化していく自らの境遇を鑑みるに、どういった手だてを打つべきか、またどのようなことを指針としていくべきかということを学びたい。
 私は「試験勉強」だけなら得意なほうのタイプの人間だったので、「教科書」と言う言葉にも惹かれて、この本を手に取ったものである。

 2、概要 社内政治からは にげられない

 私はいわゆる「倍返しだ!」のアレを読んだことがない(タイトルも思い出せない)のだが、社内政治というのはどうにもドラマティックに見える一方で生々しいお話を頻繁に聞かせられることが多いものなのだ。正直言って、コネクションやらなにやらのお話は本当におどろおどろしく、世の中にはこんなに地雷が埋まっているのかと思うと気が滅入ると同時に、その探査が著しく苦手な我が身を呪わずには居られない。
 閑話休題、これらの社内政治を「悪徳」として断罪し、一致団結することこそが最上である、というのはもちろんあり得るだろう。当書では、そのような意見を夢物語であると一蹴する。
 当書では、派閥というものもどうしても生まれる。有能無能よりも好き嫌いによって選ばれる。これらは「人が社会を作る以上避けられない」ものであるのだから、それらを前提として動くべきである、として、非常にリアリスティックかつストイックに考えているのである。
 しかし、そのリアリズムから生まれる答えは、「ビジネスマンとして誠実であること」という、実に実直な答えである。誠実であることは相手に付け入る隙を与えないだけではなく、公正公平な場に立ったときに唯一有利になり得る手段である、という点からだ。あくまでも誠実さは手段であり、そのために理想的なあり方だというところが、リアリストながらも好感が持てるし、好感が持てるということはそういうことなのだろう。
 もちろんそれ以外にも「影響力を身につけるために何をすべきか」というところでは、「上司のやり方に倣え」とか「上層部ととにかく顔を売る機会を持て」とか、直接的な手法が多い。
 自分にこれらの事項が実践できるのかはとも核として、手法を知っておくこと、そうした考えがあること事態は非常に有益であると思う。

 3 おわりに 本当のやりかた

 実際に「誠実であること」飲みを持って物事が切り抜けられるのか、というところはリアルに考えれば、難しいようにも思う。もちろん、それが稀であれば嬉しいのだが、自分の不十分な人生経験ではそれを認識することはできない。
 だとしても「誠実であること」は間違いなく「能力」の一つであるし、これをどのように身につけ、活かしていくべきかを考えていきたい。

 せめて中立であり続けられるよう。